東京慈恵会医科大学 泌尿器科

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【教室の歴史】教室の沿革と研究

  • 1881~1930
  • 1930~1951
  • 1952~1975
  • 1975~1992
  • 1994~2004
  • 診療統計

第一次世界大戦が終わり、ワシントン海軍軍備制限条約 Washington Treaty on the Limitation of Naval Armamentが結ばれた大正11年2月(1922年)日本における最初の泌尿器科学講座として東京慈恵会医科大学泌尿器科学教室は設立された。それは東京慈恵会医科大学の前身である成医会講習所の開設より41年後、大学認可の翌年であった。
東京慈恵会医科大学は、明治14年(1881年)海軍軍医の高木兼寛が成医会講習所を開設したときに始まる。その後、成医学校、東京慈恵医院医学校、東京慈恵医院医学専門学校、東京慈恵会医学専門学校と変遷し、大正10年(1921年)10月19日に日本最初の私立単科医科大学として東京慈恵会医科大学が文部省より認可された。
当時は泌尿器科学講座はなく、泌尿器科分野は皮膚病学、および外科学の一部と扱われていた。そのため金杉英五郎学長(当時)は、大学の同級で欧州留学も同時期であった朝倉文三氏(図1)を説得して初代教授に迎え入れた。
朝倉文三教授は文久三年九月三日、群馬県小幡藩小参事朝倉良則の次男として生まれた。名前は、生まれた年号文久の文と、三年の三より文三と名づけられた。明治21年(1888)東京帝国大学医学部別課を卒業し外科学を専攻した。
明治28年渡欧留学しドイツ、フライベルグのベルン大学でProf. Kocher, Prof Jadassohnに学び、泌尿器科学を専攻した。明治29年の帰国時に、膀胱鏡を持参し我が国に初めて紹介した。明治31年には泌尿器科専門の朝倉病院(図2)を麹町区富士見町に開設した。 図1:初代教授
(大正11年~昭和4年)
朝倉 文三(1864~1935)

明治35年には、2回目の渡欧留学し翌年の帰国の際さらに新しい種々な泌尿器科器械を持ち帰った。帰国後は、膀胱鏡の実地示説、腎摘出術、砕石術、前立腺肥大症手術などを実践し明治36年には東京帝国大学より医学博士を受贈された。
明治44年には、国際泌尿器科学会(ロンドン)に出席し、帰国後に同年11月30日、阿久津三郎氏ら同志8人と、目本泌尿器病学会設立準備にはいり明治45年4月3日第1回泌尿器病学会総会を開催し、朝倉氏は初代会長となった。臨床業績においては「カスパー氏の遺尿症に対する膀胱内括約筋部の焼却法の価値」や「膀胱鏡検査法」を著わした。とくに膀胱鏡検査の重要性をとき、この検査法の特殊技能を普遍化する上で大きい貢献があった。大正6年第6回泌尿器病学会ではリングレー氏改良型膀胱鏡と同型の鏡を日本で作らせ、これを供覧し、本邦でも膀胱鏡が作れることを示した(日本泌尿器病学会雑誌7巻2号86頁)。

大正11年、朝倉文三は60才の還暦をむかえたのを機会に朝倉病院を閉鎖したが大正11年2月に東京慈恵会医科大学に教授として招聘された。その後、泌尿器科専門病院の阿久津病院副院長の渡辺一郎氏も講師に就任し、講義、診療が拡充された。
大正12年5月には慈恵東京病院が増築され同院にも泌尿器科診療部門が設置されたが約3カ月後、関東大震災により病院は焼失した。
翌大正13年2月には東京病院も復興し、泌尿器科部長に渡辺一郎氏が任命され、助手柳田清三氏とともに診療が再開された。一方慈恵会医院には朝倉教授、晋藤幸助氏、武田久孝氏が診療に従事した。朝倉教授は大正14年「腎臓疾患の分類及び治療」の著書を出版し広く医学界で活躍していたが、昭和4年高齢のため教授を退職した。
昭和5年日本泌尿器科学会の名誉会長に推薦されたが狭心症が悪化し昭和10年2月2日、寒日72才で逝去された。 図2:朝倉病院

昭和5年、渡辺一郎氏(図3)が第2代教授に就任した。渡辺教授は明治22年、栃木県下都賀郡に生まれ、大正元年慈恵会医院医学専門学校を卒業し外科学を専攻し、大正5年アメリカに留学した。 アメリカではシカゴ病院医学校を卒業しドクターオブメディシンの称号(図4)を授与された。さらにミシガン大学では泌尿器外科を修め、大正8年に帰国した。帰国後は泌尿器科専門病院であった阿久津病院副院長を務めたが、大正12年母校の泌尿器科講師に招かれ、東京病院で泌尿器科の診療に当った。

第16回泌尿器科学会総会(昭和2年)にて、「摂護腺肥大症手術例について」の特別講演を行い本邦での前立腺手術を推進した。
昭和3年17回総会では、「膀胱粘膜層について」講演、9カ月胎児より69才までの膀胱組織の検討し粘膜層には固有の分泌腺は認められないことを報告した。昭和4年東京地区での臨床検討を目的とした泌尿器科集談会を結成した。この会は、後に泌尿器科学会東京地方会に発展した。 図3:第二代教授
(昭和5年~昭和26年)
渡辺 一郎(1889~1951)

昭和7年には前立腺肥大症手術後の止血法として、metreurynterの応用を奨めている。これは現在使用されているballoon catheterの原理同じである。

昭和10年には内視鏡を用いて経尿道的前立腺切除術transurethral resection of prostate;TURPを報告した。当時教室員は晋藤幸助、浜屋覚造、戸田伝一郎、工藤丙午、今泉弘、近藤内匠、萩田克巳、三輪茂の諸氏であった。渡辺教授の業績の中で特筆されることは、腎結核に対する手術治療で、急逝までに、1,000例以上が行なわれたが、手術は迅速かつ優美であったという。またドレーン利用が手術創の治癒を早めることも報告した。

昭和13年「腹痛と尿」を発表し、尿路結石症29例中2例が虫垂炎と誤診されて切除術を受けたことから「検尿の手間を惜しんではならぬ」と述べている。
昭和18年には今泉弘講師が「膀胱内圧測定cystometry」を発表、この年の坂口賞を受賞した。これは正常例520例を検討し、さらに異常膀胱98例の膀胱内圧を測定したすぐれた研究であった。

昭和18年太平洋戦争が熾烈となり、教室員は減少したが、診療は休まずつづけられた。昭和20年の敗戦後、除々に教室員も復員し、渡辺教授は東京地方会会長に就任、終戦直後の復興に努めた。しかし昭和26年1月24日、クモ膜下出血のため62才で急逝された。 図4:シカゴ病院医学校のドクターオブメディシンの称号

昭和27年第3代目教授として南武氏(図5)が就任した。南教授は外科助教授からの転身であった。南教授は明治42年11月30日福島県に生まれ、昭和10年東京慈恵会医科大学を卒業、外科学を専攻し臨床では「患者さんより学ぶ」ことをモットーとし、また研究では、努力勤勉すること、すなわち、"Of nothing comes nothing"を卒先遂行された。
昭和28年、第41回総会において「尿路結石症の統計的観察」を、つづいて「膀胱腫瘍の臨床的研究」についても発表した。
昭和29年12月に教室員、研究生、教室後援者らの同門会を思源会と命名し結成した。当時は経済的に不況な時代で1部の教室員は、三菱海運と契約して船医として世界を駆け巡った者もいた。昭和31年より、人工腎臓の研究がはじまった。 図5:第三代教授
(昭和27年~昭和50年)
南 武(1909~)

昭和32年南教授は自ら欧米の泌尿器科学を研鐙のため1年間留学した。この年慈恵第三分院に泌尿器科が設置され初代医長としては毛利氏が出張した。 昭和33年には久志本教授(当時航空医学助教授)の独創的な電気透析が完成され、慈大式人工腎臓が完成し小型簡便、性能の良いことが大きな話題となった。昭和34年よりラジオアイソト-プ、レノグラムの研究が、安藤、町田氏らによってすすめられた、昭和35年に安藤弘氏が助教授に任命され、その後佼成病院泌尿器科部長として出張した

昭和35年10月、第25回東部連合地方会総会が行なわれ、南教授は会長講演として「遊走腎症の二、三の問題」を発表した。昭和36年渡米留学より帰国した小柴健氏によりTURによる前立腺肥大症の手術が数多く行なわれるようになった。また同年大堀勉氏が岩手医大泌尿器科助教授に転任(後、教授、学長)した。

昭和37年10月、本館病棟が新築落成した。その年に教室の教育体制としてレジテント制度が採用され若い医師の泌尿器外科としての修練の制度がつくられた。これは現在も続けられており、わが教室の一つの特色となっている。 昭和38年、千野一郎氏が助教授に就任した。昭和39年尿路結石の自然排出の規準を作り、無用の手術をさけることを示した。また、新たに尿路結石手術法「側方垂直切開法による尿管切石術」を考案し、ロンドンにおける第13回国際泌尿器科学会において映画による講演を行った。それ以後筋無切断尿管切石術、すなわち南式尿管切石術が広く行われるようになった。南教授は、「医師は、What can I do to help the people around me. の言著を実行することが肝要である」と常々、医員を教育された。

昭和42年安藤弘氏が東邦医大泌尿器科教授に選任された。昭和43年には第6回日本人工臓器学会総会が南教授が会長とし開催された。昭和45年には第58回日本泌尿器科学会総会を主催し南教授は会長講演で「泌尿器科学の教育」を行い当時重要視されていなかった教育の大切さを説いた。

さらに医学生教育のため他校教授(東北大学宍戸教授、千葉大学百瀬教授ら)と交換教授(図6)が行なわれるようになった。翌46年小柴健氏が北里大学泌尿器科教授に石橋晃氏が助教授(後、教授、病院長)に就任した。また、同年第11回核医学総会が南教授主催で行なわれ、外人講演者としてラジオイムノアッセイ(RIA)の開発者の1人Yalow女史を招請した。さらに町田助教授はrenogram研究により核医学会賞を受賞、アメリカ核医学会に招請された。それ以来教室の研究はアイソトープと腎機能の研究、および悪性腫蕩の治療に関する研究などが引き続いて広く行なわれた。

昭和50年南教授は定年退職され、名誉教授の称号が贈られた。最終講義は昭和50年2月14日、「泌尿器科の最近の進歩」と題して講演された。同年、杏林大学医学部泌尿器科教授として千野一郎氏が就任した。 図6:左より南教授、百瀬教授(千葉大学)、
宍戸教授(東北大学)

昭和50年4月に町田豊平氏(図7)が第4代教授に就任した。続いて同年十月増田富士男氏が助教授となり新しい教室の体制ができた。11月には杏林大学泌尿器科助教授として工藤潔氏が転出した。
その当時の教室員は30名で、基本方針として研究、教育、診療を三本柱として調和のとれた教室の確立をめざした。当初の重要研究テーマとしては「泌尿器科領域におけるラジオアイソトープ診断の利用と開発」「尿路男子性器腫瘍の放射線治療」などがあったが、その後研究班は腎臓班、RI研究班、感染班、組織班の四部門に分け、精力的に研究発表がおこなわれた。この年より教室年報が発刊されるようになりその後定期的に発行されている。

昭和52年には癌患者における免疫能について、.腎シンチスキャニング剤の開発、腎盂鏡の改良、モルモット膀胱筋の興奮収縮連関機能、各薬剤の使用経験、実験停留睾丸の研究などを行った。また南孝明氏が米国デューク大学に留学、小野寺昭一氏が群大微生物学、三橋進教授のもとに研究派遣された。

昭和55年は、悪性腫瘍マーカーとしてのCEA、AFPの研究、また腎癌治療法としてTranscatheter embolizationが精力的に行われた。またこの年より関連病院として国立大蔵、国立王子病院が加えられた。
54年度より町田教授は大学附属病院副院長となった。教室の研究には、新たにPAPのRI法による測定に関する研究、Optical urethrotomyの利用、R plasmidについて、尿中polyamineの測定、男子不妊症の治療、CTによる診断法などの多くの研究が加わった。また、同年、三木氏が助教授に就任され第三分院部長となった。そして昭和56年は、都立台東病院が教室関連出張病院となり教室は開講60年を迎えた。 図7:第四代教授
(昭和50年~)
町田 豊平(1928~)

また11月には南武名誉教授が勲二等瑞宝章に叙せられた。1984年(昭和59年) 7月に富士市立中央病院が教室関連出張病院となる。
同年10月には第49回日本泌尿器科学会東部総会を開催(会長町田豊平教授)した。同会において増田富士男助教授が宿題報告「腎細胞癌の治療成績を左右する因子について」を行った。

また、1985年(昭和60年) 4月三木誠氏が東京医大泌尿器科教授に就任した。また、第73回日本泌尿器科学会総会にて増田富士男助教授が宿題報告「腎細胞癌の治療をめぐる諸問題」を行なう。1986年(昭和61年) には星総合病院と液済会東京病院が教室関連出張病院となった。

1987年(昭和62年) には第6回日本画像医学会総会を主催し町田豊平教授が会長講演として「腎の立体画像への試み」を行った。増田富士男が教授に就任し4月には大学分院として柏病院が千葉県柏市に開院した。また同時にJR東京総合病院が教室関連出張病院となった。同年10月には第30回日本腎臓学会総会で町田豊平教授が教育講演「腎のlnterventionalRadiology」を行なった。

1990年(平成2年)には神奈川県衛生看護専門学校附属病院と東京都リハビリテーション病院がそれぞれ教室関連出張病院となった。1991年(平成3年) 4月には教室開講70周年記念会を開催また、7月には第3回World Congress of Videourologyで増田富士男教授の「Thoraco-abdominal radical nephrectomy」がOlympus Citationを受賞した。

1992年(平成4年)9月には第32回日本核医学会総会を主催(会長町田豊平教授)した。1994年(平成6年) 町田豊平教授は退任となり記念講義「職業としての医学一臨床の知を求めて」を行った。同時に名誉教授の称号を贈られた。

1994年4月大石幸彦氏(図8)が第五代教授に就任した。また、南武名誉教授が米国泌尿器科学会名誉会員に推挙された。
1997年(平成9年) 1月大石幸彦教授は附属病院院長に就任。1998年(平成10年) 1月:大石幸彦教授、日本泌尿器科学会東京地方会会長に就任した。2000年(平成12年) 6月に小野寺昭一氏教授に就任。また7月に猿島赤十字病院が教室関連出張病院となった。2001年5月に大石幸彦教授、全国医学部長病院長会議副会長に就任さらに第14回老人泌尿器科学会を主催(会長、大石幸彦教授)し教室開講80周年記念会を開催(図9)した。

2003年9月東京医療センターで日本初の前立腺癌に対するBrachytherapyが開始されたが、翌 10月より当教室でもBrachytherapy(図10)が開始され2005年10月までに211例施行された。これは日本全体の約1割に相当する。 図8:第五代教授
(平成6年~)
大石 幸彦(1928~)

図9:開講80周年記念会
図10:Brachytherapy

2004年(平成16年)3月大石幸彦教授退任。
2004年4月頴川晋氏(図11)が第6代教授に就任した。現在、教室員は、頴川教授以下65名で本院の他に3分院、10の関連病院を抱えている。 図11:
第六代教授 頴川 晋

前述の如く東京慈恵会医科大学(図12、13、14)泌尿器科学教室は1922年本邦で初めての泌尿器科学教室として開講し、翌1923年診療を開始した。
その後1957年に附属第三病院(図15)に泌尿器科が、1963年に附属青戸病院(現・葛飾医療センター、図16)に泌尿器科が、1987年に附属柏病院(図17)に泌尿器科が順次独立して開設され、日本の大学病院泌尿器科としては最大級の病床数を抱えた泌尿器科学教室として今日に至っている。
本院は特定機能病院、第2次救急指定病院として東京都及びその近郊の幅広い紹介患者を収容し、一方葛飾医療センターは葛飾区の、第三病院は都下狛江市、調布市の、柏病院は千葉県柏市及びその近郊、それぞれの中核病院として各地域の医療を担ってきた。 図12:本院外来棟(東京都港区西新橋) 図13(左):本院 入院棟(東京都港区西新橋)
図14(右):東京慈恵会医科大学晴海トリトンクリニック

  • 図15:第三病院(東京都狛江市)
  • 図16:葛飾医療センター(東京都葛飾区)
  • 図17:柏病院(千葉県柏市)

図19:外来新患患者数の変遷 外来部門の年度別外来新患総数(図19)と膀胱尿道鏡検査数を(図20)に示した。各病院とも年間2000-3000名の新患が当科を受診し、年々増加傾向を示していた。  この20年間各病院泌尿器科とも外来で膀胱尿道鏡検査を行い、1人で複数回の内視鏡検査を受ける人がいるものの、年間1000件前後の膀胱尿道鏡検査を実施し、概ね新患患者の3人に1人は内視鏡検査がなされた計算となった。

図20:膀胱鏡施行件数の変遷 主要泌尿器科感染症では特異性感染症である尿路性器結核の減少が1985年ごろから各病院とも認められ、性感染症(STD)は1981年から1986年までがピークで以降減少傾向を示した。  急性膀胱炎は各病院とも年度別で増減がなかったが、本院では1994年特定機能病院として指定を受け、そのためか本疾患は減少を示す数少ない疾患のひとつとなった。
悪性腫瘍では各病院、各悪性腫瘍とも概ね増加傾向を示したが、腎悪性腫瘍は腹部超音波検査が積極的に一般医で行われるようになった1980年代後半からの増加が顕著であり、前立腺癌はprostate specific antigen(PSA)が普及した1990年代前半から増加していた。

図21:入院患者数の変遷 入院部門では年度別入院総数(図21)、手術総数(図22)を示す。
入院数、手術数とも各病院で増加傾向を示し、最近では本院で約700名、各分院は約300-400名前後が年間入院していた。
ただ、各病院とも泌尿器科病床数に制限があるため、入院期間の短縮化をはかる必要に迫られている。悪性腫瘍では精巣腫瘍を除きいずれの腫瘍も増加が顕著で、近年の本邦癌患者数の推移を裏付ける結果となった。
泌尿器科の代表的内視鏡手術であるTURではTUR-P、TUR-BTとも各疾患の増加とともに増加しており、その手術数から現在でもなお各病院泌尿器科の主要手術として位置付けられていた。
尿路結石治療は体外式衝撃波結石破砕装置(ESWL)が1987年以来本院に設置されており(EDAP LT-02、Dornier Lithotripter D)
、原則として外来通院加療としている。本院を含め各病院とも尿路結石入院患者数も増加傾向を示した。尿路結石に対する手術は1984年頃までは盛んに開放性切石術が行われていたが、その後PNL,TULに取って代られ、さらにESWLの適応拡大に伴い、PNL,TULも減少していることが明らかとなった。
以上、当教室の歴史、研究、診療状況を概説した。

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